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多くの方がご存知のようにアサナというのはヨガの身体姿勢・訓練、坐法のことである。
パタンジャリのヨーガスートラのひとつの段階として描かれていて、日本ではヨガと言えばアクロバティックなポーズのことである。
以前から半跏坐、ヨガで言うヴィーラアサナ(勇士のポーズ)で座るのは普通の胡坐より安定して好きだったのだが、最近ひざが痛くなって座れない。
毎度しているわけではないが、たまに夢見に浸れるときがある。
自分は夢の中にいて、夢だと分かっていて、この世界と同じようにひとつの現実である。
手をかざしてみて、周囲を見る。焦点があって光景が見えるときもあるし、進めないときもある。
そういうとき、起きると、ほとんどの場合肉体を意識していない。硬直したような独特の感じになっている。
呼吸も知らない。しているかどうかを確認するすべはない。多分しているのだろうが、それでも全くそういうことを意識していない。
熟達したヨギは24時間恍惚境に浸って、霊に感応して呼吸や心臓が止まり、そのほうが通常の不完全な睡眠より休めるとか、なんとか、読めば眉唾もののような記述があるが、多分こういうことを言っているのだろう。
そのためには、思考も納得していなければならないし、体も適応していなければならないし、気持ちもしっかりしていなければならない。
だが、多分それ自体が必須のものではない。
たとえて言うなら販売のルートを作っている、みたいなことだと思う。
販売ルートを作るために、会計ソフトもいるかもしれないし、電話がいるかもしれないし、訪問がいるかもしれないし、インターネットがいるかもしれない。会計ソフトを導入して経理が早くなって、風が吹けば云々で一定の流通ルートが確保できている場合、会計ソフトが必須だというわけでもないが、ないと困るのも確かなのだ。
そう、今もっている連鎖反応の知識もほとんど小学校の中学年ぐらいのときの知識だ。あのころは何でも吸収できたのだ。
だが、若いときに見た。
通常の人間、ある程度教育を受けた人間でも、空間の中に原子がある云々という世界観から抜け出ることはむずかしい。
だが、見てしまえばそうでないことがわかる。なぜ昔の人間が神といったのか、何が言葉なのか、そういうことがわかってくる。
最初、混乱する。おそらく通常の世界観の理論を知っていれば知っているほど混乱する。
その後の人生は両方の橋渡しをすることに費やされる。両方正しいという前提で進めるほかはない。
半減期が数十年、数千年という放射性物質がある。
簡単にいうと毒物である。
だが、本当にそれは解決できない問題なのだろうか。
多くの人は、いわば人間が非常に高次の物質と関係しているということを知らない。自分は物質だ、と考えたことがないからだ。物質というような単純な言葉でいえるようなものではない。
あらゆるものには、必ず聖霊が働いている。一般的にはそういう知識はない。
そこで放射性物質だが、非常に恐ろしい物質ではあるが、たかが物質である。人間の作ったものだ。
神がお許しにならなければ、この世界に存在することはできない・・・たわごとに聞こえるだろうが・・・
聖霊も必ず働いている。神から地上に伸びるはしごの一定の場所に許しを得て存在している。
だから、何とかなりそうな気がするのだ。
ある人には幽霊をみる。ある人はみない。
人が見るものはそれぞれ相当違っている。
なぜそのようなことが起こるのか。
それは習慣によって知覚するものを選び取っているからだ。
子供のとき、それは比較的自由にいろいろなものを見る。
だが、何かを選んで繰り返すことによって、特定のものが強調され、それ以外のものを徐々に無視するようになる。
その固定をしているものは、思考であり内的対話である。
特定のものが強調されると、理性という状態になる。
理性的な人間に不思議は存在しない。
選択はエネルギーの流れを決める。それがその人の状態を決定している。
だが、そこに感情的なわだかまりがなければ、意識の発達は自然な終着点に行き着くことが期待される。
誰もが自分の物語を持っている。ずっと昔の、何か小さな出来事、それがエネルギーの流れを決定してそれ以上前に進むことを許さない。
不思議の国の住民は、リストがリストであると知っている。リストから逃れることはできない。だがリストは自分が選んだものだと知って、そこにエネルギーを無限に費やすことをやめればいい。
何度も同じことを考えているのだけれど、すぐ忘れてしまう。
しかし、何度も繰り返すうちに、おそらく自分の中に埋まっていく。
予知という。
思考によっての予知、予測というものはデータで判断するということである。
これは占星術であれ、天気予報であれ、同じである。
何らかの意味で体験から、未来を推測するのである。
いいにおいがする。芋を食べたい。最も簡単なものはそういうものだ。
何かを遠くへ投げる。落下地点が予想できる。ボールの大きさ、重さ、投げ出す速さ、力、こういうものから一定の公式でどこに到達するか計算できる。
point=F(x,y,z)
である。
そして、思考そのものがそういうものなのである。
初めて経験することには必ず戸惑う。
思考は、たとえば初恋に対応できない。そういう経験はないし、データもない。説明も出来ないのだ。
思考は、結婚に対応できない。30人ほど結婚してみました。その結果、私は痩せ型の人がうまく行くとわかりました・・・まさか。そういうデータは取れないのだ。取れるかもしれないけど、これでもかという好色な男に違いない。
人は占いが統計だという。占いは統計ではない。なぜなら、種明かしがあるからだ。
超能力は統計である。なぜならあいつが10言ったことのうち9は当たっている。説明はつかない。あいつは見えるという。見えるのだ。
そういう意味では、女はみんな超能力者だ。理由がなくて行動できる。
そのことを理解しないといけない。わかってもだめだ。理性的にではなく、理解するのだ。
理性は決してその壁を越えられない。
理性にとって、未曾有の大災害などというものは、あってはならないのだ。未曾有の大災害の予言などそもそもあり得ない。未曾有のことが起こったというデータは存在しない。存在すれば未曾有のことでなくなってしまうのだから。だから、理性には超能力はない。
理性から見える光景、それはたかが理性から見える光景に過ぎない。
一つ大事なことがある。すべてを理性で進めるには人生は短すぎる。XとYとZの人生がある。Xは政治家である。Yは学者である。Zは泥棒である。どれが一番いい人生だろう、さあ順番にやってみよう・・・それはできないのである。
覚書。アラビックパーツの解説がほしい方は、他の方のホームページや本で見てください。
パートオブフォーチュンに代表されるアラビックパーツ。
たとえばパートオブフォーチュンは、
上昇宮+月-太陽
である。これは考えてみると、月齢をASCから当てはめたものに相当するということは前に考察した。
さて、仮に1月ごろで午後に生まれて、太陽が山羊でASCが双子、月齢が10日ぐらいで月が雄牛の人がいたとしよう。ついでに金星も魚ぐらいに書き込んでおきますね。
この外円が、この人の普通のホロスコープである。
だが、私たちは、占星術で出生時間が分からない人に対して、太陽を第1ハウスとしたホロスコープを作ることを知っている。その場合、第1ハウスがASCではなく、山羊になる。すると、おそらく月は第5ハウスぐらいにくるだろう。金星は第3ハウスにくるだろう。多分。
つまり、太陽を中心としたハウスシステムにおける月とパートオブフォーチュンは、同じハウスに位置する。金星とパートオブラブは同じハウスにある。ただし、第1ハウスは太陽を中心としたシステムでは山羊なのに、ASCが双子だから、金星とパートオブラブ、月とパートオブフォーチュンはそれぞれ違う。あえて、獅子や天秤に意味をもたせるのである。
これって、よく考えると四柱推命がやってることと、同じことをやっているような気がする。
そんなことをやって、なにが面白いのか?
そこで限りなく具体的な事象を当てる、という前提があるからこそ、アラビックパーツは意味があると思う。
これを思いついたのも、行方不明の件を考えているときだった。なんとなく今日はついてる、みたいな占いなら、多分別になくてもいい。まず、金庫をあけて中身を確認してみろ、とか、そういうことを言えないといけないのだ。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
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