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普通この意味は、要するに自分の人生で起こることは決まっていて変えられないのか、という意味である。
運命は変えられますか、というような質問も同じである。
だが、ある程度占星術のいわゆる術やその理論的なものに触れて、大まかに運命についてわかってくると、話が違ってくる。運命は机上の空論ではない。実践的、実際的なものになってくる。
どこにあるともわからない運命、誰が知ることができるかもわからない運命、だけど決まっている運命。そういうものはあってもなくてもどうでもいいことなのだ。
今、目の前に盤を作りました。神経をすり減らしてホロスコープを読み取りました。その結果、おろかな人間の理性にわかるものとして現れた運命。
それが決まっているのか、変えられるのかと問うているわけだ。
ということは、完全な運命というものは存在しない。
なぜなら、自分の運命を知るということが、運命に影響するはずなのである。
これは霊感だとかもっとはっきり預言だとかいう人の場合でも同じだと思う。
だから、ある瞬間、運命を決定するような出来事が起こる。
それぞれ、決定的な瞬間というのは、人によってあるとは思うのだ。
・・・・・たぶん、それを覚えているということ、思い出すということが重要なのではないか。
結構幸せなはずなのだ。そうじゃないか?
なぜ、私は今ここにいるのか。なぜこのようであってあのようでないのか。
知っているはずなのだ。
いろいろご意見を頂戴して、続きらしきものを書きました。
http://pausanias.blog.shinobi.jp/Entry/506/
ちょっとでも占いに触れた人が誰でも持つ疑問だと思う。
しかし、その疑問が起こったそもそもの発端は、私が、あるいはあなたが、ちょっとだけ占いや運命学、未来を知る何かに触れたことである。
「なんか当たってるような気がする。」
そこには「私」が存在する。
では。
今日は休日である。
子供と近くの遊園地に行こうか。山に登ろうか。スキーに行こうか。いろいろ考えていたとする。
しかし、あなたは運命に気づいてしまった。
そこで、今日一日、自分の星を見ることにしようとあなたは決意した。
ホロスコープや運命学、占いの本を買ってきて、頑張りに頑張って、わかる限り自分の将来を予測してみた。
その日遊園地やスキーには行かずに、星を見た。
翌日会社に出勤して「やあ、~さん、昨日はどこかいかれましたか」と聞かれる。
「遊園地に行きました」というのと「いえ、ちょっといろいろあってどこにも・・・」というのと、同じであるはずがない。
あなたはその日それを知ることができる、というほうにチップを置いた。知ることが出来るなら知りたいというほうに賭けた。
同じであるはずがない。
私はどこかの国の立派なお墨付きをもらったりしたことはないので、えらーい先生から見たらあるいはお叱りを受ける内容かもしれない。
アスペクトを形成するかどうか微妙な場合が多々ある。
配置としては水星のような動きの速い惑星が火星のような遅い惑星に対して追いついてアスペクトを形成する、いわゆる接近のアスペクトと見られる配置がある。しかし、その場合、水星が逆行していれば、配置としては遠ざかるわけである。(1)水星が前の宮に戻ってしまうことがある。(2)追いつくときにはすでにもともとのサインを離れてしまう。
また、アスペクトの形成には問題ないけれども(3)火星が逆行しているケースもある。
さらに両方が逆行しているケースもあるだろう。
また配置として分離のアスペクトなのだけれども、先に進んでいる水星が逆行していて現実的に何日か後に正確なアスペクトを形成する場合もあると思う。
で、私は経験的に配置を基準に考えていいのではないかと思っている。
配置の上で速い惑星が遅い惑星に追いつく形になっていれば、サインを離れようが、逆行していようが、アスペクトが成立すると考えていいもの、と思っている。
ただし、逆行している場合何か特別なことがある。それは何かが起こるのが遅れるとか、失敗することがあるとか、失ったものが返ってくるとか、以前の状況がぶり返すとかである。たとえば北朝鮮のミサイル発射のときの迎撃システムが誤射した、というような判断が逆行だった。
実際問題、水星と火星が接近のアスペクトの配置だけれども、実は水星が逆行していて、しかし確かにサインを離れる前に正確なアスペクトを形成するとかしないとか、計算上確認するのは大変なことだと思う。
しかしもし皆さんが違うと思われるならば、そのように判断されればいいと思う。ただ、それを書き留めて検証していくことだと思う。
このブログで何度か書きかけて繰り返しにはなるのだが、またメモである。
古典占星術では、たとえばスクエアになったサイン同士の中に惑星があるからアスペクトだとみなすという。
たとえば、牡羊と射手は120度の関係にあるから、それぞれに星が入った時にトラインを形成する。
だが、では古典占星術の専門家がそれでオーブを無視しているかというと、そうではない。
さらに古典占星術には、サインの区切りとしてフェイスだとかタームだとか、12分割ではない細かい分割が存在する。ではその分割方法がアスペクトに影響を与えているのだろうか。
今私は9分割を検証しようとしている。
そのほかにも、一つのサインを3つに分割するデーカンというような分割方法が使われる。いくつかやり方があるようだが、デーカンは日本で言う旬にあたり、よく使われるようだ。
もしこれが九星や四柱推命の占術家であれば、己と癸が出てきた時点で、あるいは八白と一白が出てきた時点で、これは土剋水である、正官である、下痢である、上司の問題であると判断をしていくだろう。別にその土や水が年柱にあろうが月柱にあろうが関係ない。年齢域とか、人間関係の立ち位置は違ったとしても、土と水から出てくる象意というものは、いつでも同じように考えて判断し、かつ具体的なことを当てているはずなのである。
そういう風にアスペクトを考えることはできないものか。たとえば、牡羊12度と獅子の18度にあるのであれば、
普通はトラインだけれども、9分割では蟹と乙女つまりセクスタイルの関係にある。デカンでは獅子と射手にある。
こう考えると、10度ずつのデーカンが大事な区分ではあっても、本当にその区切り方、サインの割り振りが正しいのかどうかということになってくる。
そして、最終的にその信憑性は「確かに私のおばさんは水色のワンピースを着ていたわ!」と言えるかどうかだと思うのだ。
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