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何度も何度もこういう問いありますね。占い信じますか。
星占いとか、手相とかいろいろありますが、占い信じますか?
どの占い信じますか。
ずっと前、十代のころから分かっていたことなのですが、改めて思い直したことがあります。
たとえば、マイケルジャクソンが6月25日に死亡して、私は7月19日に、殺人だとするなら医師か薬剤によるものではないかと占いました。そして、それは本当でした。一ヵ月後、医師による他殺だというニュースが流れました。
でも、それはあなたやわたしの知らない、あずかり知らない遠くの有名人の話です。
お客様から依頼があれば、私は当たるものとして占断し、その結果を告げます。
依頼者は真剣なんです。いままでご相談があったのは離婚に関するものが最も多く、恋愛、就職、試験などとなっています。離婚したい。どうしたらいいですか。できますか。あるいはそういうことを書くことすら出来ない人もいる。大きな悩みを抱えています。どうしたらいいですか、とか。
しかし、依頼者もまた大概遠くの方です。私をリアルに知っているわけではありません。
ですが、もし、たとえば私とあなたが親しい中であって、私が、あなたの目の前で、あなたと私の未来に関わる重大なことを同じように告げたとしたら、どう思うか、ということです。たとえば、「あなたのお父さんは医師・薬剤による他殺でお亡くなりになりました」などと告げたとします。
あなたはそれが当たっていたところで、占いを信じることもできないし、私を信じることもできなくなるでしょう。
逆に不信感が募るでしょう。
身近な人というものは、私がどんな人か知っています。外見、行動、性格。
でも、その身近な人も私の内面を知ることはできない。通常出来ない。
もし、あなたが私の能力を身につけたとして御覧なさい。質問を受ければ世の中の人が認めることが出来ない特殊な方法をあなただけが知っていて、1週間後、2週間後のこと、あるいは隠れて誰も知らないはずのことを言い当てることができたとしたら、他の人からあなたがどうみられるか。
占いが信じられるということの意味が、こういう質問をする人は分かっていません。
これは一方通行の橋です。わたることは出来るけど、戻ることはできません。
知恵袋は、時々覗いている。
ときどき「占い師になるにはどうしたらいいですか」という質問がある。
占断を差し上げた方から、お弟子さんはいらっしゃるのですか、などと聞かれたこともある。
技術的に占いができるということも一つである。
それから、プロであるということを引き受けなければならない。
プロであるということは、他の職業でプロであるということと同じである。
依頼者にとって、私が占星術で占おうが四柱推命で占おうが関係ない。ホラリーではこうですが、出生図ではこうですという。それも関係ない。お客様は、自分の情報を私に渡して、結果を聞く。それが当たったかどうか、有用であったかどうかだけが、お客様の関心事である。あなたはサビアンを使わないのですか、ハーフサムはどうですか、と言われても、依頼者には何の関係もないことなのだ。
私は占断番号No~~~という形でご返答をしている。その結論を導くプロセスを保存している。自分の回答に責任を持つためである。
しかし、占い師内部においては、それだけではない。
占い師は死んでいないといけない。
お客様が、私にすべてを明かさない場合もある。私は悩みごとを当てましょうといっている。
占断依頼が来て、誕生日しか分からない。その時点で、「多分この人の悩みは転職だろう」「男女関係だろう」というようなめぼしをつけないといけない。
依頼者は、とても真剣である。
あえてお金を払ってでも相談したい。人には言えない、心の悩みがあるからこそ相談する。
しかし、軽々しく私のようなものに本心を打ち明けていいか、わからないのだ。
そして、私は、こういう状況でしょう、何日後にこうなるでしょう、こういうところにチャンスがあるでしょう、とご連絡する。
すると、私は私自身に対してはどうなのか、という問題は乗り越えていないといけない。
~~の母と呼ばれるような方がおられる。ご自身が離婚を経験されたり、様々な苦難を経験して占い師になっておられる。
そうした経験の集積がその占いを支えている。
それは単にデータの蓄積ではない。
私自身の話で言えば、たとえばアテネでギリシャ語で交わす冗談や議論などの記憶がある。
そんなものは誰とも共有しようがないのだ。
結果そういう記憶は封印されることになる。
記憶はあって、気持ちは残っているが、自分のほかは誰も知らない。
さまざまな思いや記憶があったにしても、他の人もそうだと認めて人生に対して死ぬ。普通にご飯も食べれば、知り合いと会話もする。
うまくかけないが、占い師になるというのはそういう側面を持つと思う。
なぜ女性のほうが占いに嵌るのか、という質問がよくある。
女性のほうが星占いに嵌るのは、多分女性のほうが星占いが当たるからである。
この質問をするのは男が多い。それは、要するに占いが信じられない、馬鹿げたものだから、女はなぜあんなばかげたものに嵌るのか、というニュアンスがある。
しかし、本当に良く観察していて、女性のいうことが聞ける男なら、女性の微妙な感性に一目置くはずだと思う。
たとえば、職場でお弁当を一緒に食べたり、井戸端会議をしたりする仲間がいる。星占い好きの女性たちは、このグループは水のサイン(蟹、蠍、魚)のグループだとか、風のサイン(双子、天秤、水瓶)のグループだとか、感じ取っているのである。
男は占いが当たる部分を中心に生きてはいない。男は頭でっかちなのだ。
頭でっかちであるということは、1つの正しい結論を導き出せるということである。地図を見て、目的地に点をつけて、そこにいくためには玄関をでて左へいって、二つ目の信号で右に曲がるのが一番近い、という考え方である。なぜ女はあんなに方向音痴なのだろうか、と男は思っている。
算数の結論を出すために、蟹座であるか射手座であるかは関係ない。どちらでも同じ答えがでなくてはいけないのだ。
多くの男性、特に頭のいい男性にとって、人間が白紙で生まれてきて、経験をつんできて、理性的な判断をする、と考えるのは心地よいものである。
しかし、子供を生んだ女はそうでないことを知っている。子供は最初から一定の性格を持った人間として生まれてのである。
理性は世界には平等にチャンスが与えられていて、より良い最高のものをひとつ選ぶことができると考えたい。しかし、これは一生に一回しかないものについて適用することはできない。結婚が1回きりだとするなら、結婚にそれを適用することはできないのである。
学歴とか収入とかルックスとか、100人前に並ばせておいて、一番いいやつを取るということはできないし、仮に一番年収のあるやつを取ったからといってそれで幸せになれるわけではない。
女はちゃんと一人の人を選ばなければならない。そして、この人がいい、と思うものの、なぜなのか、説明できないのだ。
先天的に人はひとつの性格という型を持って生まれてくる。人には二つの側面がある。ひとつはその人自身だということである。ある人は最初からかわいらしく生まれてくる。ある人は最初から几帳面である。ある人は最初から用心深い。
もうひとつは、学んだりまねたり強制されたりして、形成された人格である。
そして、占星術は間違いなく、その人自身に関わっている。その人の思いはその人の頭にあるが、その人自身はその人の胸にある。
男は後天的に学んだこと、理性的なことが優れているという幻想に浸ることが心地よいのである。女は基本的に一生その人自身なのだ。
あるひとつの宇宙、あるひとつのまとまりを持った全体のことをコスモスという。
今のギリシャ語では人々などという意味に使われることもあり派生的な意味がさまざまにくっついている。
私が聞いた範囲では、この言葉を最初に使ったのはピタゴラスで、飾られたもの、という意味だったということである。コスメティックなどという言葉がありますね。あれと同じです。
全世界はひとつのコスモスである。ひとつの生命体はひとつのコスモスである。たとえば人間はひとつのコスモスである。
多分太陽系もひとつのコスモスである。地球もひとつのコスモスである。銀河もひとつのコスモスだろう、多分。神もまたひとつのコスモスだといっていいと思う。神という言葉は人によってさまざまな意味に使われる。正しいものであったとしても、沢山の概念、沢山の経験から来る言葉だ。しかし、それでもとても大雑把にいって、神はコスモスだといっていいと思う。
ホロスコープは多くの場合ひとつのコスモスを表している。
ホロスコープは、更に、厳密な意味でこれをコスモスと呼んでいいのだろうか、というものにも当てはめられる。たとえば、ここでやっているようなひとつの事件である。
ひとつの国家である。会社である。組織である。国家は生命体か?というと、一応違う。違いはするが、それでも生まれて有機的に動いて、成長したり消滅したりはする。
コスモスも実は単体で独立してあるわけではなく、大きなコスモスが小さなコスモスを内包する形で、さまざまに影響しあい、つながりあって成立している。他から切り離された独立したコスモスというのは存在しないのである。コスモスは生きていて、時間とともに変化していくものなのだ。
山羊座、土星が何か重要な意味を持つホロスコープができた場合、それぞれのコスモスにおいて、その占断結果が有効である。
宇宙において、それは土星である。しかし、ひとつの国としてみた場合、労働者階級かもしれない。よく組織された軍隊かもしれない。家族にとって、おじいさんかもしれない。一人の人間にとって冷え性かもしれない。ひざのことかもしれない。窓から見える景色のうちの畑のことかもしれない。お仏壇のお供えの野菜かもしれない。畳のふちの茶色と濃い緑のところのことかもしれない。
本当はどう思っているのか・・・
他の占いもそうだが、占星術は一つの全体という考え方を基にしている。
占星術の是非は、実は分からない部分もある。科学者さんたちが、占星術を非難するのはそれでそれで当たっている。科学的な方法論において、占星術にはなんら根拠はない。
しかし、科学は一つの全体という考えを提供しない。
科学を超えて、一つの全体という真実に行き当たった時点で、科学は万能ではない。それまでに培った世界は役に立たなくなってしまうのだ。
一つの全体という考えは、実は単純なものである。
誰でもわかることである。
それは、単純に生きているということ、生命について部分から全体を作るということは決して出来ないということを単純に納得するというだけのことである。
神は本当である。命は一である。われわれの命は一つの命から来ている。来ているというのは、ゾウリムシみたいに二つに分裂したのではなく、われわれは個だけれども同時に一つの全体の命だということである。
だが、科学は部分から全体を構築する体系なのである。一つの全体という体系を持っていないのだ。
徹底的に科学的に教育された人、頭のいい人ほど、その単純な目の前の事実を受け入れられない。
占星術がはじまるのは科学の向こうからである。
なぜか、占星術は一つの全体という考え、法則性に基づいて作られているように見える。古代の誰がどのように作ったのか知らない。だがこれなのだ。
-- ほってくれ・・・ここにある!--(ファン・ラモン・ヒメネス「神の犬」)
そこで占星術の細かい規則が正しいかどうかは分からないけれども、とにかく、占星術をやってみて、しかも当てなければ仕方がない。
それは一つの全体という考えをつかさどる法則を知るためである。
あなたが牡羊座、火星で現される。相手は天秤、金星で現される。あなただけの盤はない。彼だけの盤もない。
牡羊座だけの牡羊座はない。天秤があっての牡羊である。雄牛があっての牡羊である。獅子があっての牡羊である。一つだけで存在するものは占星術ではないのである。
彼の本心を知りたい。しかし、彼に本心ってあるのか。別にその場の成り行きでドンピシャリかもしれないし、そうではないのかもしれない。たまたま、なんとなくいい雰囲気になってしまった。たまたま、あなたの言うことに感じてしまった。たまたま気に入らないことを言ってしまった。
だから、彼に聞いてみて彼が「自分はこうだ」と語る以上に、星の言ってることが正しい可能性はある。占星術師が未熟ではずすことがあったとしても、理論上は星のほうが正しいということはありえるのだ。
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