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変に思われるかもしれないが、私は占星術の何もかも闇雲に信じたりはしていない。
あなたは占いを信じますか、などという人が結構いるが、私はあんまり信じていないほうかもしれない・・・
作ってみて、実際の人生や事象に照らしてみて「あっ、本当にこの通りだ!」と思った方法を使うようにしている。しかし、よく考えるとこれは大変なことである。
たとえばホラリーで、ある惑星が逆行していたとする。
恋愛や夫婦問題を問うような依頼があったとする。
第1ハウスが乙女で第7ハウスが魚、それぞれの支配星が水星と海王星である。水星があるサインの10度にあって、海王星が28度にあったとする。通常なら接近のアスペクトだ。だが両方逆行だ。水星が海王星に追いつくまでにそのサインのなかでアスペクトが形成される場合も考えられるし、ない場合も考えられる。このアスペクトがトラインだったらどうか、スクエアだったらどうか、セクスタイルやクインカンクスだったら?
こういう様々な要因を捉えて、YESである、NOであると判断する。占星術師としては、依頼を受ければ判断するしかない。それでYESになるのかNOなのか、逆行によってどんな影響があったのか?
で、これは検証するしかない。
しかしだ。
占い師の人生でこの条件を満たす星の配置がそう何十回もあるはずがないのである。
私は四柱推命でいう空亡の年に生まれている。霊合星人というのですか。
それから、生まれてから幼少期のかなりの期間が大運空亡、いわゆる宿命大殺界である。
周りを見ていると、確かにこの人は空亡で悪いことが起きてるなあ、という人もいる。だが、私が空亡の年を勘定してみると、逆に意外に落ち着いた年だったような気がする。
だが、果たしてお客さんがひっきりなしにくるような人気の四柱推命の占い師で、~星人の場合に空亡で確かにこのようなことが起こっているが、その霊合星人の場合はこうだ、というのをどれぐらい実人生で追うことができるのか。難しいのではないか。
さらに、占い師が体験し得ない実人生、境地を達成した人もいるだろう。
おそらく、この辺が東洋の占術に流派ができる理由なのだろう。
この場合、原理的なものを把握すると言うのが、ひとつのやり方だろう。しかも、その情景が思い浮かべられるほど習熟するべきなのかもしれない。
普通の人にとって、占いは良く分からない、信じていいものなのかどういうものなのか、よくわからないものなのだろう。
私はいまはこうやって人様の占いをしたりしているが、自分では、取っ掛かりは好奇心であり、特段信じもしなかった。
だが、一応ノートを作って、占星術の占断結果ををちゃんと書いていた。つまり、だれだれは出生時間がいつで、どこで生まれた。計算するとハウスのカスプは何度で、それぞれの天体が何度にあり、どのアスペクトがある。そしてひとつの本に書いてある意味をノートに書き出していくのである。お勉強ちゃんだったということですかね。
それでそういう蓄積があるので、あるときにふっと気づくのである。
あっ、あの人も山羊座だった。似てる。
あっ、この時期旅行が多かった。確かに旅行の多い時期と書いてある。
よく、細木数子先生の六星占術がどうか話題になる。
大殺界なんか信じていいものかどうか。あれは四柱推命でい言う空亡の時期にだけ注目して、一部分を抜き取ってあたかも新しい占いであるかのように吹聴しているだけであるとか、いろいろ批判はある。
だが、だからといって一般の人が最初から複雑な四柱推命の命式表を作成して細かく運勢を占い始めることができるかというと、それは難しい。しかし、六星占術は簡単である。
あ!そういえばこの前大殺界のときもこんなことがあった。
という気づきがあれば、他の人はどうだろうとか、もっと複雑なものに対する興味も沸いてくる。
そこで初めて、占いが現実味を帯びてくる。そうでなければ別に占いなどなくてもいいと私は思う。
あなたが占いがなくても十分幸せで、人生の目的を持ち、実現していくことができればなくてもいい。
インターネット申込みで、あったことはあった。漠然とした質問で、多分あなたの悩みはこれでしょう、みたいなやつですね。
しかし、なんといやらしい人間でしょうか、私が占いに行ったときに、自分の悩みは言わなかったことあります。占い師ならあててみろ、みたいな。自分の本当の悩みを人にいうのが恥ずかしいし警戒してしまう。さそり座っていやですね。
東洋の占いではそういう手法があります。テレビの有名占い師がそれをやると、へえ、すご~い!ということになるのです。本当に占い師の先生も精進されていたり神様から特別の賜物を頂戴してパッとお分かりになるケースもあると思いますが、まったく方法がないわけではない。事細かに当てられるかは別にして、ざっとしたことなら方法さえ知っていればかなりの素人でもあてられます。
一種のホットリーディングといえなくもないのですが、人相などから読み取れるケースもあるし、占星術の場合でも出生図で大体の傾向はわかるのですから、そういう答えもできるかもしれない。たとえば、家庭問題の星があるということが分かれば、質問にそれが関係していると分かるかもしれない。鼻の周りが黒くすすけていれば、経済的な問題を抱えていると分かる、云々です。
しかし、ホラリーに関して言えば、質問内容がハッキリしていないといけないという縛りがある。西洋占星術で、今日質問してきたこの人の質問は何か?というのを当てる方法はハッキリしていない。一応、ASCの支配星の種類によって、質問者の状態は分かる。土星なら悲しんでいるか落ち着いているとか、火星なら怒っているとかですね。
ここから本題。
その人の出生図が書ける、出生時間まで分かる人について、依頼はしたいけれども質問がハッキリしない場合、問い合わせ時の盤と出生図を使って、質問内容と結びつけることがどうやらできそうな気がしてきました。今後ちょっと気をつけてみていることにします。
やっぱり橋本京明先生の占断は見てる人にはショックだったようで、いろいろなところで先生の名前を見かける。あれは霊感だと。四柱推命だけではあそこまでできないだろうと皆さん仰るのである。
霊感と占いとどこで線引きがされているか分からない。先生はとても霊感の優れた方だろうとは思う。
しかし、だからといって占いであそこまで具体的に当てられないだろうと断定してしまうのはどうだろうか。
私が同じように当てられるか?といわれるととても自信はない。
だが、なぜあのように当てられるのか、占いという観点で考えることができなければならない。
たとえば、相談者が携帯を握り締めていると仰っておられる。
携帯電話は何か?乾は剛金である。艮は半分折りにできるものである。震は話し声でありバイブである。また震には、実体がないという意味合いがある。五行が同じで比和だとする。すると、向こうからもこちらからもアクションがない。
私は東洋の占いには詳しくないし、実際に暦をめくってみたわけではないので、断定できるわけではないが、多分盤面にはそういう星や卦が並んでいる。すると東洋の占術者は、こういう象意を見たときに、座って電話をかけるのをためらっている相談者を思い浮かべることができなければならない。
そういう占いができるためには、基本的な象意の表がないといけない。東洋の場合は、易経から始まって、割と詳しくそういう象意の表がある。しかし、西洋占星術の場合は、日本での歴史が浅いこともあり、まだまだのところがあると思う。だが、できるだけそういう占断を心掛けるようにはしたいものだと思っている。
私は霊感占いとか、霊視はしていない。
しかし、普通の人が、この人は本物だろうか、私が霊感を得るにはどうしたらいいだろうかとか、未知のものに向き合うやりかたというものがある。
そこでハッキリしていることは、行いの透明さである。
何か、利害に関わることはだめなのである。利己的なことはだめなのである。
利害に関わらないということはどういうことなのか。
たとえば、ある方術を心得ていて被術者のことがぴたりと当てられる、そこで当てられて「ええっ、すごーい!何で分かるんですか!?」
と言われれば通常は施術者もちょっといい気分だ。
しかし、そう言われたいというのではだめなのである。
ほんのちょっと、心理的に、自分のためというのはだめだ、利己的なことはだめだということで突き詰めていくと結局全部の行動が利己的なことである。理性的な考えにおいて、すべてのことは利己的なのだ。
にもかかわらず、利己的はダメだというのであればどうすればいいのか。
それは、カルロス・カスタネダが言っている「憐れみのない点」を通らないといけない。
憐れみのない点は沈黙の知へ導くという。沈黙の知に達すると人は二箇所に存在するようになるという。
これとは別にインドでニルビカルパ・サマーディに到達すると二箇所に存在できるといわれている。
よくオカルトで、バイロケーションだとかドッペルゲンガーだとか言われる現象について言われている。
自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬといわれていることが、このことが、上記のことと無関係だとは私は思わない。死の前に一時的に人間があるべき沈黙の姿に戻るのだろうと私は思っている。
残念ながら、私は自分が二箇所に存在しているのを確認したことはない。
だが、憐れみのない点はうそではなく、そのことは私も分かっている。
結局虚栄心とか利己的とかそういう心のあり方、ひいては行動の仕方というのは、ほんの小さな感情の上に成り立っているのだ。その感情が消えると、人間を構成している多くの前提が消える。
そして、そこから先は透明である。それが、蓮華座を組んでいるときに訪れるとは思わないほうがいい。毎日求めていれば、どこかでふっと神はそういう瞬間をもたらしてくれる。それはとても虐げられているときやつらいときかもしれない。
霊感とか悟りとかいろいろいうわけで、それはインチキではないかとか、どうして本当と分かるのかとか、いろいろ疑念があるのが普通だと思う。
だが、心配しなくても、ちゃんと出口はあるのだ。そしてこの憐れみのない点、平静さ、沈黙がそれが霊的であるかどうかの試金石になる。
たとえば、多くの聖人は、未来を見通すだけではなく、ほかの人を癒したり、開眼させたりする。その沈黙の力にはそういうものがあって、それは誰でも確認できることだと私は信じている。
そこでどのような行動をとるかは、その人の個性である。その人は自分がそういう信じられない状況にいるのを、普通は隠すような行動を取るだろうと思う。
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