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お経のうち、真言と呼ばれるものは、意訳されずに音写された。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多
みたいなのが意訳ですね。もっとも般若波羅蜜多はサンスクリットのままですけど。
しかし、最後のギャーテーギャーテーというのは、意訳されなかった。この部分が真言ですね。
孫悟空を5つの山の下敷きにしてお釈迦様が書かれたお札、オームマニパドメーフームのようなものが真言ですね。
真言と言うと密教であって、紀元500年ぐらいに成立したものです。ではそれ以前にはなかったのかというと、テーラワーダ、タイとかスリランカの仏教にはパリッタという呪文があるそうです。
キリスト教ではそういうことは私の知った限りではなかった。
古代イスラエルはあったと思うのです。神の名前を表すテトラグランマYHWHがそうですね。
しかし、膨大なキリスト教の祈祷儀式の中で、真言に当たるものには出会っていません。
ただし、キリスト教の音楽理論はすごい。
東側では言語の土着化が行われたが、音楽理論は西洋音楽を取り入れたロシア以外では基本変らなかった。カトリックでは言語の普遍化を目指して、どこでもラテン語の祈祷をするようにしたが、この場合、そもそもラテン語の祈祷がギリシャ語やヘブライ語の原典の訳です。
じゃ、その音写すべきか、きっちり踏襲すべきかどうかで何が違うのか?
音写すると言うことは、音そのものに何らかの物理的根拠があるということになります。
意訳してよいと言うことは、音の響き自体には意味はなく、それが働きかける連想が同じだ、ということになります。キリエといいドミネといいゴスポジという、同じことをイメージする、考えを通して自分に働きかける、連想を通して働きかける、ということになるでしょう。それを聞いて、考えて、初めて意味があるということになります。
音楽に関してはキリスト教は連想でないものを意識していたと思います。
物理的と聞いて笑うなかれ。ギリシャ語の句点に当たるところで、この旋法ではこれを使う、こういうつづりの場合はこう記譜する、ラシドと上がる場合にはシの音は何分の一音高くするが、下がるときには何分の一音下げるとか、ある程度音楽の分かっている人ほど度肝を抜かれると思う。
いや、なんでこんなことを蒸し返したのかといいますと、姓名判断です。
一見何の根拠もなさそうに見える。だが、これも学んでみないと分からない。
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